月曜日の朝って、どうしても好きになれないなぁ。 在職中も休職中の今も、重苦しさは変わらない。
仕事に出かける妻を見送る僕。玄関に向かう彼女の目は、完全に死んでいる。「行ってきます」の言葉もモスキート音みたいに、僕にはうまく聞き取れない。数ヶ月間の自分もあんな姿だったんだなぁ。玄関先で、うつむき加減に家を出る彼女の姿を見ていると、現在の立場上、自分の無価値観を感じずにはいられなくなる。
「そんなに辛いなら、辞めちゃえばいいのに」 そんな言葉が喉まで出けるけど、数日前に時給が上がって喜んでいた彼女の顔を思い出すと、何も言えなくなる。それに、今の僕がそれを言ったところで、何の説得力もない。
彼女は、自分の中に明確な「正しさ」を持っている。僕はそれが怖かったりする。 一方の僕は、相手の感情を『高性能なセンサー』でつい察知してしまう。だから、彼女が今の僕を見て本当はどう思っているのか、そんなことは、わざわざ言葉にされなくても、空気感だけでわかってしまう。
焦ってスマホを開き、成果や数字を眺めては自分の現在地を必死に確認する。何かと自分を照らし合わせて、目盛りをチェックしないと、自分がどこにいるのか分からなくて不安でたまらなくなる。 たぶん、「他人からの評価」という基準に自分を預けすぎているんだろう。
でも、ふと思う。 何かをしたから価値があるという考え方は、もう手放していいんじゃないか、と。
休職して、これからのことが何も決まっていない今の自分。 そんな自分を、「まあ、これはこれでいいじゃないか」と肯定できたとき、よくわからない何かに縛られて必死に働いていた頃よりも、不思議と自分を好きになれている気がする。
正しさとか、義務感とか、そういうもので自分を測るのをやめたとき、無条件で自分はここにいていいんだなぁ、とちょっとだけ思えた。
まずは僕が、自分自身を許してあげること。そして、なるべく機嫌よく過ごすこと。
そのために、まずは僕が先陣を切って「正解のない生き方」というやつを必死に生きてみよう。いつか、死んだ目をして家を出ていく妻にも、それがなんとなく伝わればいいな。まだ直接言葉にする勇気はないけれど、せめて背中くらいは、そう語っておきたい。
いつか月曜日が憂鬱に感じなくなったら、玄関先の妻の声がもっとよく聞こえるようになっているかもしれないなぁ。

